2008年3月1日土曜日

三木鉄道(おまけ版)

三木鉄道(おまけ版)
(加古川線今昔:車両編)




 加古川線の電車はワンマン化されていました。今は大都会のフリークエントサービスの電車でもワンマン化されている時代ですから、閑散線の電車がワンマン化されているのはちっとも不思議ではありません。私にとって目新しかったのは、運賃の支払い方法とドアの取り扱い方法でした。


1.乗り降りが難しい加古川線です

 運賃の支払いは後乗り前降り方式で、下車時に運転士の居る前ドアで料金を支払います。 これは一般的な方法で戸惑うこともはありません。しかしこの線の場合は、有人駅では運転士の所で支払うのではなく、駅員に支払います。このことは、電車が駅に到着する前に放送で案内があるのですが、駅によって支払い方が違う方式は、気を付けていないとちょっと戸惑いかねません。
 乗車する時は、電車に乗った時に整理券を取るのですが、有人駅では乗車券を購入してから乗るので整理券を取る必要はありません。また無人駅でも自動販売機で乗車券を購入することが出来るところが有りましたので、色々な方法が混在しているように思いました。










 ドアの開き方も複雑です。 列車は、二つドアのクモハ125の一両編成のものと、四つドアの103系の二両連結編成のものが走っています。ワンマン運転用に作られた二つドアの125系は前後に各一つのドアしかありませんので単純ですが、大量輸送用に作られている103系の場合は複雑です。上の写真はドアの開き方を説明したポスターで、各車両に中吊りされています。無人駅では先頭車両の後ドアから乗車し前ドアから下車します。その他のドアは開くことが出来ません。有人駅では、時間帯にもよりますが、全部のドアが開扉可能になります。


 しかしドアの前でじっと待っていてもドアは開きません。ドアの脇に有る開閉用釦を押さないと開いてくれません。外国の鉄道はこの方式が多いのですが、日本ではあまり多くはないので、慣れない人には大変でしょう。


2.加古川線を走る電車

 最近は、一線区一型式系または二型式系という鉄道が多くなってきています。つまり、一つの線を走る車両は、何百両の車両が有っても一型式系か二型式系しかないというものです。ここ加古川線も昔のディーゼル時代には色々な型式の車両が見られました。しかし今は二型式しか走っていません。
 その一つが大都会から回ってきた103系(3550番代)電車です。片側4ドアの大量輸送対応車です。四つもドアが有りながら、ドアとしてはあまり活用されていません。しかし、前面は大幅に改装されていて、前から見たのでは103系とは分かりません。さらに驚かされたのは、全面にラッピングが施されていることです。このラッピングは広告では有りませんでした。Wikipediaによると、横尾忠則さんと仰る方のデザインだそうで、過日記した目玉電車を含め、4本の列車に施されているそうです。



  
 
 



 こちらは、加古川線が電化された平成16(2004)年に新製導入された車両です。 2ドア両運転台のワンマン仕様地方線用の電車です。この電車はラッピングされていませんでした。  下の写真は室内の状況で、座席は片側2列、片側1列の3列転換クロスシートです。






3.昔加古川線を走っていた車両

  前に記しましたように、私が前回加古川線を見たのは30年近く前のことでした。その頃の加古川線は、まだ電化されておらず気動車が走っていました。気動車が走る前は当たり前のようにSLの世界だったわけですが、残念なことに私はSL時代の加古川線は知りません。
 
 30年ほど前の加古川線には 、キハ20、キハ35などが走っていましたが、変り種として キハユニ15という 3等・荷物・郵便合造車が走っていました。一番下の写真がそれです。今、どのJRにも荷物車や郵便車は走っていないことでしょう。
 社会の近代化が進み、発展すると同時に古き良き物がなくなって行きます。残念な面もありますが止むを得ないことでしょう。












































 とうとう3月になりました。今月いっぱいで三木鉄道が幕を下ろしてし まいます。残念なことですが止むを得ません。廃止前に見ておこうと、 訪問した三木鉄道です。関連して北条鉄道や、JR加古川線について も言及し、大変長くなりましたが、これで終りにしたいと思います。

2008年2月28日木曜日

三木鉄道(おまけ版)

三木鉄道(おまけ版)
(加古川線今昔:駅編)




 今回訪問した三木鉄道も北条鉄道も、JR西日本の加古川線から枝分かれしています。この訪問では三木鉄道と北条鉄道のほか、加古川線を見るのも楽しみの一つでした。私が、以前加古川線を最後に見たのは、ディーゼル時代の昭和54(1979)年の夏でした。それから30年近く経った今、どんなに変わっているのかを楽しみにしていたのです。

 大きく変わったことは、電化されて電車が走っていたことでした。このことは3~4年前に加古川駅を通った時、高架化と電化の工事を目にしていたので、今回訪問して電車が走っているのを見ても、それはごく自然に受け入れられたのです。




 三木鉄道を見終わったあと、私は厄神駅から加古川駅まで三駅間を乗車しました。線路や沿線はあまり変わっているようには見えませんでしたが、この区間の駅はすべて新築され、大きく変わっていました。

 右の写真は、三木鉄道と接続の厄神駅です。中央の二本の線路が加古川線です。駅に入る手前で右に分岐している線路が、以前三木線に入るための線路でした。しかし、今は砂利で埋められ、草むして通れなくなっています。

 駅の向こう側で加古川線は大きく左にカーブして行きます。しばらく真っ直ぐ走る三木鉄道との間に新しく加古川線の車庫が出来ていました。これは大きく変わった点です。

 ホームの左側が駅舎ですが、おそらく電化工事の時に跨線橋も含め新築されたのでしょう、新しくきれいな駅舎でした。


  私は厄神駅始発のクモハ125に乗り、加古川駅に向かいました。





 次は神野(かんの)駅です。ホームはかさ上げされ、ホームの屋根も跨線橋も新しくなりました。











 次の日岡(ひおか)駅です。この駅もかなり変わりました。写真を拡大するとホームのかさ上げの状況が、前の神野駅の写真より良く分かります。 跨線橋が無いのは昔も今も変わりません。






 昔の日岡駅です。写真の中央付近にポイント操作の長いレバーが並んでいます。昔の単線区間の駅の当たり前の姿です。

 乗客が犬と遊んでいるのものどかな光景です。 このホームは上り線側(上の写真の右側)のホームです。



 列車の交換風景です。駅長さんがタブレットを持って列車の到着を待っています。タブレット交換は昔は当たり前の光景でしたが、今はほとんど見られなくなりました。







 この写真は<おまけのおまけ>です。今は無くなってしまいましたが、加古川から南の方向、高砂まで加古川線の延長の様な形で、線路が延びていました。高砂線です。この写真は、高砂線の列車が出発して行く所です。




 こちらは<おまけのおまけのおまけ>です。加古川を出た高砂線の最初の駅、野口駅です。昔はここから別府(べふ)鉄道と言う私鉄が出ていました。左の車両が高砂線、右が別府鉄道のディーゼルカーです。別府鉄道に付いては改めてご紹介致します。
(続く)

2008年2月27日水曜日

三木鉄道 (おまけ版)

三木鉄道 (おまけ版)
(ポスター考)




 三木鉄道と北条鉄道、播州平野の農村地帯を走る非常に似かよった境遇の第三セクター鉄道です。同じ時に国鉄から離れて発足し、そう離れていない似たような所を走っています。沿線の人口、企業、学校などの有無や、住民の鉄道に対する意識などのことはは分かりませんが、今回この二つの鉄道を見て、活気の違いを感じざるを得ませんでした。

 北条鉄道は三木鉄道に比べ営業距離が長いので、運賃収入はいくらか上げ易いのかもしれません。また、駅間距離が長めなので、キロ当り(≒運賃当り)の運転経費は多少なりとも安めに済むと思います。因みに運賃は全区間乗車して 400円対 250円、駅間平均距離は、1.94Km対 0.83Kmで北条鉄道の方が幾分有利です。

 しかし、こんなことだけで片や苦しいながらも生き延び、片や廃線と言うほどの差にはなり得ないと思います。本当の原因は分かりませんが、一つの要素として<ボランティア活動>を上げても大きな間違いではないように思います。ここに私が垣間見た、北条鉄道のボランティア活動について少し述べてみたいと思います。



 私はボランティア活動の実際を目にしたわけではありません。ボランティアの方とお会いしたわけでもなければ、お話したわけでもありません。ただ、駅に作られ、良く整備された花壇やイベント予定や結果などが示された手作りポスター、各駅の歴史や駅名の由来などが書かれた、これもまた手作りのポスターなどを見ると、ボランティア活動の成果の有無が大きな差となって現れたのではないかと言う気持ちにさせられたのです。


 おそらく、ボランティアの方達は、駅をきれいにするだけでなく、実際に鉄道に乗られた事と思います。また、ボランティアを取り巻く人達も極力鉄道に乗るようにされたことと思います。



 ボランティア活動は大人たちだけでなく、子供達にも影響を与えていました。駅に貼られていた子供達の作文がそれを物語っています。


 この写真は、粟生駅に貼られていた各駅のボランティア駅長名や駅の特長、駅長さんの一言が示されたポスターです。一番下の部分には森本うららちゃんと言うお子さん(多分小学生)の作文の一部が載っています。

 この作文からも分かるように、ボランティア活動の発案は、鉄道側でした。しかし、ボランティアに参加している人たちが本当に一生懸命やっている姿が思い浮かぶようです。         


                        


 これは、同じお子さんの作文です。






 これは、法華口駅と播磨下里駅を紹介したポスターです。ボランティア主催の法華山ハイキングで、たくさんの人達が方法鉄道に乗ったわけです。









 この写真は、」法華口駅の駅名標について昔と今の書き方の違いを説明したポスターです。大変見難くて恐縮ですが、是非お読み下さい。





 この写真は、その駅名標です。よく見ると昔書かれていた文字がうっすらと見えます。こんな駅名看板はめったに見られない大変貴重な物だと思います。








 私は、三木鉄道でも同じようにボランティアの方達が頑張っておられるだろうと思いました。三木鉄道の方はどんな活動がされているのだろうかと、少なからず期待をして、三木鉄道を訪れました。



 ところが私の期待は完全に裏切られました。それらしきものは何もありませんでした。実際にこのような活動あったのかなかったのかは分か
りません。しかし、見た限りでは何もありませんでした。





 有ったのは、いくつかのグッズ販売のポスターくらいでした。しかも、有人のはずの三木駅に従業員は一人も出てきて居らず、グッズを買いたくても買える状態ではありませんでした。


  批判的なことは申しません。しかし、前向きの活動をしたか、しなかったかで、大きな差がでてしまったような気がしてなりませんでした。
 (もう少し続きます)



















2008年2月26日火曜日

三木鉄道に行って来ました(5 三木鉄道 その3)

やっと三木鉄道です
(その3 線路編)
(訪問日: 平成20年2月19日) 



 どの鉄道にも線路の距離を測る基準点があります。三木鉄道も基準点、つまり、0Kmの点が定められており、そこからの距離を示すキロポストが線路に設置されています(路面電車など、キロポストのないところも有ります)。この写真の中央部やや左寄りに、黒字で ‘0’ と記された白く細い頭部のとがった小さな柱が見えます。これが 三木鉄道の基準点です。



 実際には、この点まで車両は行きませんので乗客は 0Km地点からスタートすることは出来ません。普通はこのようなことは無いのですが、三木鉄道の場合は国鉄時代の線路をそのまま使っているため、ちょっと外れた場所になってしまったものと思います。基準点の位置も、基準点から各駅までの距離もすべてその駅の駅長室の位置を基準として決められています。三木鉄道のゼロ点は、国鉄時代に厄神駅の駅長室の場所によって決められたゼロ点をそのまま使っているのでちょっとずれた場所になってしまったのでしょう。

 線路の先には砂利が積まれ、車両止めの標識が立てられています。昔はこの先まで線路が延びていて、加古川線に接続していたのです。三木鉄道に変わって、線路は外されてしまいました。





 この写真は、上の写真の反対側、三木方面の写真です。右端の線路が三木鉄道です。左寄りの加古川線はこの先で左に大きくカーブしています。三木鉄道は少し先の方で右に大きくカーブしています。その間に、加古川線の車庫が新設されていました。



 左の写真は、お隣の国包駅から厄神方面を見た写真です。ホームの三木側の端に、 1Kmのキロポストが立っています。線路に立てられている標識には、キロポストのほかにカーブや勾配を示す物など色々なものが有ります。そして、これらは基本的に下り方向に向かって左側に立てることになっています。厄神駅のゼロ点ポストは反対側に立てられていました。なぜでしょうか。

 
 なんの変哲もない写真ですが、国包駅と次の宗佐駅の間です。道路から見えなかった線路が初めて見えた辺りです。三木行きの列車は、国包駅を出ると間もなくこのような広々とした田んぼの中を走ります。






 宗佐駅手前の踏切です。もちろん無人の自動踏切です。国鉄時代に、遮断機や警報機など有ったのでしょうか。今、このような見通しの良くない踏み切りで遮断機などがなかったら大変なことになることでしょう。



 宗佐駅を過ぎると、小高い丘に差し掛かります。線路と並行した道路は丘を登って行きますが、鉄道は切通しを走ります。三木鉄道唯一の山岳路線風の場所です。



 切通しのもっとも深い辺りを俯瞰したところです。








 上の写真の場所を走る列車の中から撮った写真です。






 石野駅と西這田駅の間に有った鉄橋です。ちゃんと鋼板をリベットで組み立てた標準的なガーダー橋です。はっきりはしませんが、この構造の橋はこれが当線唯一ではなかったかと思います。



 田んぼの真ん中の素晴らしく見晴らしの良いところに有る踏切です。こんな見通しの良い所にある踏切にも警報機と自動遮断機が設置されています。昔なら考えられなかったことです。今の時代、こういった設備が無くて事故が起こったら大変な問題になるのでしょう。
 
 



 別所駅近くのコンクリート橋です。これもおそらくこの鉄道唯一のコンクリート橋ではないでしょうか。







 5Kmのキロポストです。別所駅の手前です。




 まもなく終点三木駅です。民家の門をかすめるように線路が通っています。
 この橋は、H型鋼を組んだだけの簡単な構造の橋です。







 特に珍しいものではありませんが勾配標識です。登り 12.5‰を表しています。

 
 いよいよ終点三木駅です。三木鉄道の線路の最終点です。正面に車止め標識が立てられています。
 (続く)

2008年2月25日月曜日

三木鉄道に行って来ました(4 三木鉄道 その2)

やっと三木鉄道です
(その2 駅編)
(訪問日: 平成20年2月19日)

 三木鉄道には全部で九つの駅が有ります。終点の三木駅以外はすべて無人駅です。また、北条鉄道の法華口駅のような、元交換駅だった跡が残っている駅も有りましたが、交換可能駅は一つも無く、全区間一閉塞区間です。全部の駅を見て行きましょう。
1.厄神(やくじん)駅
 三木鉄道の本社は終点の三木駅にあります。しかし、起点駅はJR加古川線との接続駅である厄神駅です。JRの駅に付属しているような無人駅です。この点、やはり無人駅ながらJR加古川線との接続駅である粟生駅が起点駅となっている北条鉄道も同じです。北条鉄道の本社も、終点の北条町駅に有りました。いずれも接続駅である無人駅が起点駅になっているのは国鉄時代の流れでしょう。
 三木鉄道のホームはJR加古川線の上りホームの反対面で、JR側より20~30cmほど低くなっています。JRが電車導入時に嵩上げした結果そうなってしまったので、わざわざ低くしてあるわけではありません。北条鉄道の粟生駅も同じ状況でした。
 

2.国包(くにかね)駅

  厄神駅を出てカーブを大きく右に曲がって行くと、すぐに国包駅が有ります。
 写真の向こう方向が厄神駅です。
 厄神駅から1Km地点です。駅舎と言うか、待合室と言うか、小さなコンクリートの建物がありました。全線でただ一つだけのコンクリート製です。国鉄時代に建てられたのか、三木鉄道になってから建てられたのかは分かりませんが、事務室や待合のベンチが有るところを見ると、どうやら国鉄時代のもののようです。他の駅や沿線の風景から何か浮いた感じでした。中には、時刻表と営業終了のお知らせポスターなどが幾つか貼られていました。
 
 ボランティア活動なのか、鉄道が用意したのか、ホーム側に花が少し植えられていました。
 前のブログで記したように、ここまでは列車に乗ってきましたが、ここで下車、ここからは、道を探しながら歩いて行きます。  
 




3.宗佐(そうさ)駅

 国包駅から線路にぴったり寄り沿った道路は有りませんでした。線路はほぼ東西に走っていますので、写真のことを考え、南側の道路を行きたいと思いました。国包駅のすぐ先にある踏切の道路を歩き始めましたが、どんどん線路から離れて行きます。すぐ横を通っていてくれると最高なのですが、そうは問屋が卸しません。
 交差する道があるたびに線路の方に行って見ます。道路と線路の間を行ったり来たりです。10分ほど歩いた所で駅を見付けました。うっかりすると見落としてしまいそうな駅です。駅舎は無く、簡単な、庇のような屋根があるだけです。このような形は私の子供の頃東京の私鉄でも良く見かけたスタイルです。案外、全国的な標準タイプだったのかも知れません。厄神駅から1.5Kmの所です。


4.下石野(しもいしの)駅

 宗佐駅を過ぎると、線路がだんだん遠くなってきた感じです。道路は上り坂になってきました。坂の頂上の近くに信号が有りました。その交差点を左に行ってみましたが、線路は見当たりません。100mくらい歩いたでしょうか、橋らしきものが見えて来ました。
 それは線路を跨ぐ橋でした。道路は小高い丘を登って通過していましたが、鉄道は切通しになっていました。
 橋の上から線路の写真を撮って、また元の道に戻り歩を進めました。この丘を越える間は線路がどこにあるのか分かりません。離れ離れにならないことを祈るばかりでした。

 阪を下りきると左手に線路が見えました。道路からの距離はこれまでとあまり変わらないように思えました。
 しかし、ここで私は駅を一つ見落としていたのです。下石野駅です。次の石野駅の駅名標を見てそれに気付きました。止むを得ず、そのまま三木まで歩き、帰りに乗る予定の列車からこの駅を撮影することにしました。幸い何とか撮影できた写真がこれです。面白いことにプラットホームのすぐ向こうに踏切が有るのに、駅の入口は手前側にあり、三階くらいまで上がるような高い階段が付いていました。厄神駅から2Kmです。




5.石野(いしの)駅

  丘を下りきった辺りから、道路の左手大体 100m以内にずっと線路が見えていました。辺りはずっと田んぼです。天気は良いし撮影には絶好です。厄神行きの列車の写真を撮ったり線路の写真を撮ったりしながら歩くうちに左手に駅が見えました。石野駅です。この線で初めて見る国鉄時代の駅舎です。向かって右側は宿舎にでもなっていたのでしょうか、この程度の路線の駅舎としては大きい方です。


 右の写真は、ホーム側から見たものです。この写真ではあまり良く分かりませんが、左手に昔交換駅だった名残が見えました。
 自動車が少し写っていますが、駅前には車が何台か置ける駐車場が有りました。土地が十分とれる地域ですから付近の人たちのための駐車場とも思えません。ひょっとしてパークアンドライド用でしょうか。もっともここまで車で来るなら、もっと先まで行ってしまいそうな気もします。厄神駅から2.6Kmです。




6.西這田(にしほうだ)駅


 ここも駅舎のない駅です。三木鉄道発足のとき、駅を幾つか増設したと聞きました。多分駅舎の無い駅がそれだろうと思いました。ホームの裏に大きな工場が有りました。
 駅名標の隣に<別所小PTA  児童用>と書かれた時計が掛けてありました。PTAから寄付されたものでしょうか。時間が合っていたところを見ると誰かがメンテナンスしているのでしょう。
 厄神駅から4.3Kmの所です。やっと半分を過ぎました。




7.別所(べっしょ)駅

 だいぶ家が多くなって来ました。三木の中心が近付いてきたようです。この駅も、石野駅に似て、いかにも国鉄地方線の小駅と言った感じの駅です。この駅にも、昔交換駅だった名残が有りました。
 駅前には、太い大きな木が有りました。葉が茂ると良い日陰が出来そうです。また、珍しく公衆電話ボックスが有りました。
 厄神から5.3Km地点です。











8.高木(たかぎ)駅

 この駅も三木鉄道になってから造られた駅のようです。どう言うわけか、道路からホームまでのアプローチが他に較べて長くなっていました。

 厄神駅から6.0Km、次はいよいよ終点の三木です。






9.三木(みき)駅
 
 高木駅を過ぎると、道路は線路から少しずつ離れて行きました。線路との間は、これまでの田んぼではなく家が建て込んできました。三木駅を見失わないようにしなければなりません。多分この辺だろうと見当を付け、線路の方に行きました。なかなか線路に行き当たりません。三木駅は終点です。もし行き過ぎていたら線路に行き当たりません。

 道が二股に分かれていました。ちょっと行き過ぎ気味かと思っていたところなので、左に向かいました。

 正解でした。国鉄の貨物ホーム独特の雰囲気の建物が見えました。どうやら貸駐車場になっているようでしたが、どう見ても国鉄くさい建物です。三木駅に到着しました。

 厄神駅から6.6Km、終点の三木駅まで歩きました。でも、まだ気を緩めることは出来ません。あと国包と厄神の間が残っています。ここから列車で国包まで行きます。あと一頑張りです。

 三木の駅舎もやはり国鉄の地方駅的です。JRにもあまり残っていないのではないかと思います。下野駅、別所駅、そしてここ三木駅、願わくばこのままの姿で残って欲しいものです。でも、それははかない夢に終わってしまうのでしょうか。寂しいことです。






 いかにも国鉄の古い終着駅らしい光景です。右側のホームの線路は外され、ホームはバイクや自転車の置場になっていますが、三木駅なりの昔の栄華を思わせます。JRにも当然このような駅はたくさん有ったわけですが、次から次へと改築されていきます。このホームも駅舎とともに残って欲しい。強い思いです。



 三木駅には三木鉄道の本社が有ります。そしてこの駅は唯一の有人駅です。駅長さんが厄神行きの列車を見送っていました。昔の国鉄では当たり前の姿でした。今は、ほとんど見られなくなってしまった光景です。
 
 何とか全駅を見てきました。あとは、線路を初めとする施設のことを少し書き留めておきたいと思います。
 (続く)